石巻市中瀬 日和山からの俯瞰 2011.12.17撮影(c)Noriko Shindo 
石巻市中瀬 日和山からの俯瞰 2011.12.17撮影(c)Noriko Shindo 

企画概要

宮城県石巻市を流れる旧北上川の中洲に、東日本大震災の津波が突き抜けて取り残された、小さな教会堂がある。ロシア語で「キリスト」を意味するこの建物は、ニコライの布教により1880年に同市内に建てられて約100年後の1978年、宮城沖地震で倒壊、使用不能となる。復旧の目途が立たないまま、県外の学校法人に譲渡されるところを「地元に文化財を」と石巻建青会が働きかけた。その結果、教会が被災建物を石巻市に寄付、石巻建青会が解体移築、石巻市は1980年にこれを有形文化財に指定した。
さて、今期の震災の被害は写真の通り。教会堂の小ささが中瀬で残った奇跡を大きくする。建物を見た瞬間「救える」と思ったのは、第1次アクションまでの話し。俯瞰で見た立地の価値を問うたとき、再生地はここなのか、別なのか。震災後の現地に1ヶ月滞在して地盤沈下する被災建物を使用した者の立場から、管理上の問題点も見えてきた。中瀬の対岸両翼に7.2mの防潮堤が築かれたとき、もはや中瀬の教会は対岸から見る質のものではない。市と教会と市民の名において、なすべきことをなすために使われる、問題提起映像をつくることに決めた。 (2012.09.24修正/企画者)

 

保存対象

[名 称] 旧ハリストス正教会正教会堂(聖使徒イオアン会堂)
[所在地]  宮城県石巻市中瀬3-18
[文化財]  石巻市指定有形文化財(建造物:1980年12月20日)
[概 要]  構造/木造二階建・建築面積/83.38㎡・延床面積/166.76㎡
[所有者]  石巻市
[管理者]  生涯学習課 (旧史文化資料展示施設整備対策室)

 

教会堂は明治13年(1888年)に石巻千石町に建設され、現存する日本最古の木造建築の教会堂である。昭和53年の宮城県沖地震で被災し、県外移築予定のところ、「文化財として保存を」との市民の働きかけにより、中瀬に移築再生された。文化財指定以降、文化財保護の啓蒙・啓発のために平成13年7月23日から通年で一般公開中のところ被災、現在は立入禁止措置のうえ休止中。

 

立地条件

石巻市には2つの北上川がある。地震から約30分後、東に河口を開いた北上川と、南に開いた旧北上川の2方向から押し寄せた津波は、6mもの高さで高さ日和山をめがけた。川東側の2つの魚港は壊滅状態、川西側の工業港では約7割が浸水した。旧北上川河口の中洲に建つ教会堂は、海からの直線距離にして約1.5km、今なお地盤沈下が進行している。

 

被害状況

旧北上川を遡上した津波は教会堂の1・2階を完全に貫通し、構造体は変形しながらもかろうじて残った。柱は船や瓦礫の衝突と水圧で基礎からずれて傾斜、通し柱が一部屈曲。外壁の過半が破損、屋根と庇の一部が激しく損傷した。建物東側の地盤沈下と津波による変形の関係がわかりやすく見て取れる。いずれ床の崩落により自然崩壊するまで、2年以内と考えている。

 

始まりと終わり

引力 本来対象ではない、国道45号線から外れた教会堂を石巻市でただ一つの対象に選んだのは、度重なる偶然の力だと思っている。

  

迂回 2011年夏、メンバー石山の車で国道45号線を行ける所まで行こうと、大槌町から仙台へ南下していた。津波と北上川の氾濫で被害を大きくした大川小学校近くで新北上大橋が落ち、復旧中の45号一関街道はもう一方の橋の目前で通行止め、来た道を倍の時間をかけて戻った。もしこのあと、登米市から震災直後に自衛隊の迂回路となった県道64号の追分温泉を通過せず、くの字に曲がった北上川の別の辺を辿って石巻市街に入らず、「石ノ森萬画館を見る」と石山が言わなければ、きっと教会堂とは出会わなかった。けれど他に道がない。

 

偶然 萬画館のすぐ隣で傾いた教会堂を見た瞬間、直感で「ここ」と決めた。その瞬間を見ていたのが、二度被災したロシア正教の教会堂の文化財保護に携わった元教育長・阿部和夫氏だった。2週間後に教会の小さな破片を持ち帰り、「始まる」と思った。別の折、門脇小学校の校庭で何気なく拾い上げた裏返しの白い紙を私に差し出して、阿部氏が「これ」と言って差し出したのは、紛れもなく津波にもまれた教会堂の写真だった。カードを引いたと思った。

 

これが企画の始まりである。既にこの企画は個人の単位を超え、多くの人が立場と責任を持って動き出している。何事もそううまくはいかないと知っているから、魅力的に転換したいと思う。この先の展開を見極めるには、自分で終わりを見届けに行くしかないと決めている。 (企画者/新藤) 

国道45号撮影班。PR45 公式サイト
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